2014年3月5日水曜日

「支援」が苦手だ/(人生を賭けあえない相手)

病み上がりです。

先週末のしごセンで言われたことを、少し整理しておきたい。

基本的には「他の人のいる所とか、環境の変化などは甘えだから、気持ちの問題で一人でもできる。あとあなたのやろうとしていることはとても社会的によいことだ」
ということだ。

1時間枠をとっていたし、正直もう後がない感があったので、以前の自分では
「いやあ~そういう環境とかは、関係ない」
みたいにおっさん(初老)が言ってきた時点で

「はあ~!??? それができねーからここまでわざわざ足を運んでやってんだろうがよ??この時間体力をお前のために削ってやってんだよ、交通費もかけてよ!??
んなタワゴトだったら2ちゃんねらでも言えんだよ 時間の無駄すぎんだよクソが!!!」

と椅子でも蹴り飛ばして退席してたところかもしれませんが(本当にそれに近いことやってた)

「とりあえず一つの意見として聞こう、あと100%クソなわけじゃないだろうから、使えるとこ、いいとこだけは聞いておこう」

と一歩下がって冷静に聞いていたつもりだったのですが
やはり、自分はどんなことにも入れ込むほうなので、まともに(無意識には良いとこ悪いとこ取捨選択とか完全ではなく)聞いていた可能性があると思います。


確かに、自分の「誰かのために」「こうしたい!」という気持ちが強く、ブレなければ、一人でも勧めることはできるのかもしれない。
だが、それができない自分だから、ニート周辺の問題を自分のことと同じように関わってきているのだし
以前から、実は(気合や根性)そうしてきて、次第に挫折的なことが重なって、ネガティブな気持ちも同じように出てくるようになってしまった(作業中に)
だから、色んなものに逃避して進まない今の自分ができていると思う。

だから、 自分が「一人の環境では無理だな~」と思って、そこから離れるために色々動くことは、正しいと思う。

だから、この部分は彼の意見にまともに向かわず、このまま探し続けていいと思う。


■彼の中で「僕の行おうとしていること」(ライターの書籍化のことだったが)が、とても「社会的によいこと」だというのは、ある程度の部分肯定してもらって、これは良いことだとは思う。
もっとも、ライターのこと以外に話せず聞かれなかったし、今までやってきたことはどうなんだと、まったく触れられなかった(まあ彼は有能ではないと思う。有能だったら、こんなとこでコンサルやってない)けれど。

正直そこを一番肯定してもらいたい部分ではなかったが
「ミッション(自分の中で燃えること)」があって、そのためだからがんばれる、いきいきできることが正しい、などは、自己啓発の本のようだが、まあ自分の中でも納得いっている部分だとは思う。

ただ…
全体的には…

また行きたい! と思う所ではなかった。


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僕はずっと昔から
「支援」
が苦手で
スペック的には、今でも、社会問題当事者真っ只中だから、かなり「支援」を必要としてもおかしくない人間なのだが、さまざまな「支援」とぶつかったり、ケンカしたりしてきた。
(たぶん今でも、一番無駄にリアルに様々な団体とこじれたりとらぶったりしてきた「ニート系?団体?(代表)」だとは思う)

それは僕が一番求めているものが、おそらく、具体的な解決策の前に

「人と人としての確かなつながり」

を求めている部分が大きいからだと思う。(自分が片方側としてそれを作れる人間なのかどうか置いておいて)

「支援」として立ち位置を確保した時点で、その時点で「支援者」は「守られ」ている。
ギリギリの部分でケツをまくってもよい、という守られ方だ。
なぜなら、自分の本当に身近な繋がりにおいて、相手が失敗し続け困窮し続けても 「いやあ、じゃあ無理ですね、他行ってください」と、手を放せることがあるだろうか?

だから、自分は、当事者と一緒になって作ってゆく社会起業的なものだけが好きだし、取材してきたし、自分のレンタル空手家やシゴトノアトリエも「支援」と勝手に見られることはあっても、「支援」ではない「当事者」だとしてきた。

自治体、助成金…
それは、「いざ当事者から逃げても、自分(支援者)の居場所だけは確保してあるよ」という立ち位置の宣言だと思う。
(だから自分の活動では、今まで一切助成金は使っていないし、自治体とも組んだことはない)


今まで怒りで対応してきたけれど、この期におよんで切羽詰まってきては、そういった支援すら借りるかもしれないと思っている。

だが、自分の中ではっきりと線引きをしておきたいのだ。


(私と)確かなつながり、人生を互いにかぶせるような繋がりをしようとしない者を、100%完全に信用することはない。
それが、どんなに優しい笑顔で丁寧な人であってもだ。
彼らは、自分自身が「当事者の側に立った支援者」と思っているかもしれない。
だが、自分のほうでは必ず線引きをしておくのだ。
人生を賭けあえない人間が、私に差し出す「支援」は、必ず「相手にとって都合のいいよう逃げられる部分」が一緒に混ぜ込まれている。
だから、こちらも自分にとって都合のよい部分だけを切り取って、後は道端に捨てて、横を見ることもなく、一人で進んでゆくのだ。

それが、私の「支援者」との付き合う一線だ。 


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