2016年9月22日木曜日

「誇れる仕事」と「人としてのベースの人間関係」の両輪



近年メンタル系ばかりでなく日本人全般が対人恐怖気味で、一人で生きていってもそれでも仕方ない、それでいい、という空気のようなものが広がってると思う。
けれど、一人で生きていくことは破綻する。
何より精神的に生きていこうとする気力の上で。

ここ数年、田舎に隠居やBライフ(小屋)的なものが人間関係をとるのに苦手な層の一部で憧れられているが、否定する気は毛頭ないが、おそらく10年続かない。
小屋系だとトップランナーが出てきてまだ5年かそこらだとは思うが、彼らがあと5年たった時同じ気持ちでいられるか微妙だと思う。

個人での小屋、田舎ミニマムは転地療法にはなっても、持続に疑問が残る。
脱力系は90年代からダメ連とかがあって2000年代に入ってギークハウスなど分化したが、彼らでさえ寄り集まって擬似家族を試行錯誤していた。
イケハヤ氏は続くだろう、家族移住だからだ。
山奥ニート氏たちでさえ当初から集団生活をしている。

家族と断して10年、突っ張って女関係もほぼ硬派()で通して格闘技をし自営でやってきた自分は少なくともそうだ。
パートナー、家族的な関係というかベースを作らないと、人生が持続可能にならず破綻する。


仕事にしても実は、ブラックとかは二の次というかほぼ擬似問題なのだ。
仕事のきつさや人間関係、時間拘束や給料以前に、実は「自分自身に誇れるか」「誰のために必要とされているか」という働き方自体が問われるのだ。

自分自身や愛する人に誇れない、納得しない、どうでもいい人の得のために働くことは、結局持続可能にならないのだ。

それと関連するが、さまざまな社会起業を見てきたが、その中には障害者の授産施設や最低賃金を上げる、または自立できるくらい稼がせるというのがある。
過渡期だから全く否定するつもりはないが、2点、自分的には致命的なことがある。

それは、一つはそこに通う障害者たちの多くがベースサポーターである家族とともに暮らしていること。
たとえば劣悪な家庭環境他事情で完全に家を出て暮らしたい障害者はどうなるのか。
結局その賃金や環境では「完全家出状態」ができるものは限られる。

もう一つは、これは自分が取材不足なので言葉半分に書いておくが
最低賃金の稼げる授産施設となっても、質の高いスイーツ作りや茶店で働いても、そもそもそれは「個々人の人生」にとって自分にしかできない生きがいある働き方なのかということだ。

もっともこれは少数派かもだが少なくとも自分は感じる。


結局、家族と断した以降のこの孤独の10年間で思うことは
自分にとっては、自分が納得して自分自身の思いと社会の幸せとの両方にしっかりコミットできる仕事と
こっちはおざなりにしまくってきたが、仕事の外の人としての自分を支える、孤独な趣味ではない確かな人間関係が
両輪として必要だろうということだ。

おそらくこれは両輪で、両方がまわっていけば人生もまわってゆくが どちらかではおそらくきびしいものがあるのだ。
ともすれば自分のように燃え尽き?たり
一方でゆるやかな共依存化していったり。

そんなことが、現状だし、課題かもしれないとふと思った。