2014年3月13日木曜日

理由(おばあちゃんについて)

書いてない間、先週の金曜と、今日の午前に体操サロンに行った。



ずっと昔から、僕はおばあちゃん(道ゆく/自分のではない)を見て、なんかいいなあ~となごんでいたのだが、ずっととりあえず近づこうとはしなかった。

自分の「いいなあ~」と思う気持ちが承認欲求であっては嫌だと思っていたからだ。
(そういう自意識が多分多くあった)

今日ふと思ったのだが…
たぶん、おばあちゃんと触れ合ったり会話したり、その場にいたり?すると、自分が少しだけ優しくなれる。
たぶんその時は意識していないけど、それと、その後ほんの少しだけの間。

僕は暴力の世界で生きてきた。

とくに人から、というよりも(そういうのも大きくあったが)、自分自身の中の暴力にずっと抱え込めずにはみだし続けてきた。

それは、10年以上前は、自傷行為で
内攻した気持ちはひきこもって
自分を責めて、フルコンタクトの空手をはじめて、毎日殴りあいだが、次第に暴力性は外へも向かっていって
今でも、日々自分と、そして外への呪詛恨みの憎しみでほとばしり出そうな気持ちを、膨らませたまま中に入れ、過ごしている。

もしかしたら幻想かもしれない。
たぶん、幻想だと思う。
おばあちゃんたちといると、そういうものがまったく別の世界に(ほんの一瞬でも)あるように感じられるのかもしれない。

ほんの少しだけだ。
一瞬。


そんなことを思っていた。
それだけだ。




実際、居場所が無いというのは本当で、金曜は「レン空の参考に」、今日は「家でずっとPC仕事なので」(両方とも嘘をついているわけではないが、理由としては偽り)
と来た理由をなんとなく言ってきたが
同年代のサークル?などに言っても、ぶっちゃけ自分と同年代(30代なかば)は、社会的に自分とずいぶん違うところにあるし、かといって「ニート支援」のような所にはそもそも入れない(無職でもない)
左がかった所はまっぴら御免だし、ふと、いざ、自分の周りの(つかず離れずばかりの)人間関係を、互いに離れてしまうと、完全に居場所は無いのだ。
(一部が道場だが)
日常的には、無い。

今まで、過去にコンピューターおにいちゃん(高齢者PC家庭教師)や単発の便利屋をやってたこともあり、そういうニーズや、逆に高齢者のスキルを若者還元できないかなーそういうニーズやスペックを知りたい、みたいな、ビジネス?的なところが入ってはいた(動機として。だからこそ、なかなか中に入れなかった)

だが、すぐに金になるわけでもない。
今、金が酷いことになっているし、こっちに遊んでいるヒマも無い。
だから、しばらくは、自分のためだけに色々な所に顔を出し、居られそうなら少し通ってみたりしようとも思う。
何が起こるか、別にコントロールしようともせず、大して期待もせず。

したくない。


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