2013年7月30日火曜日

脱ニートは無理

脱ニートって無理なんじゃないだろうか。
そう思ってきた最近。

一生、こういう「ニートっぽい」精神状態、考え方、生き方でやってくんじゃないだろうか。

脱ヒキしたと思った10年間、脱ニートしたと思った7年間、だんだん、そう思うようになってきた。

色んなことをしてきたけど、結局、自分の考え方、感じ方、幸せの形、好きなこと、嫌だと思うこと…
は、結局変わらなかった。

10年たっても、結局欝が来て「自分はこのままではいけない」と自分を責め、結局何もできない。

たぶん…
まったく違う人間、性格になるとかは、無理なのかもしれない。
「ニート」という言葉が、自分のひきこもってる間「発明」され、多くの人が、自分も含め、くくられるようになってしまった。
しかし、これは、自分の元からあるもので、「ニート」 から自分が出てきたのではなく、自分が先にあるのだ。

おそらく…ずっと変わらないだろう。
「ニート」からは。
だから脱ニートはできないと思う。

社会を変えるという言葉も、勘違いしていたかもしれない。
自分が社会を変えるのではなく

自分が生きる社会を、その足で、違う場所に移動するのだ。
自分が移動して、生きてくとこを変えるのだ。

社会は「変わら」ない。
自分が生きる場所が、トコトコと、歩いて、違う場所に行くだけ。
自分も変わらない。

行動様式だけが、ほんの少しづつ変わっていくだけなのだ。

自分も。
生き方も。


社会なんてない。

ソーシャルベンチャーで塗りつぶせ

手持ち無沙汰や、考えることが嫌になると、2ちゃんまとめや、はてなブックマークなどの記事を見るクセがついていた。
そういうクソみたいな閉じた、俗な価値観が、欝な思考を増幅する。

そんなもん読んでても、もう先はない。

それに、自分の事業を進めたいのに、どうすればいいかわからない。

ネガティブな価値観は、そうでなく「変えられる」と具体的で現実な事例とやり方で、塗りつぶしてしまいたい。
洗い流してしまいたい。

ツイッターに書いたもののまとめ。
今日。(7つ)



■エコモット  北海道。

除雪道路監視システムを携帯通信モジュール使った人力化し、灯油削減へ。

→機械化されていたものを【逆に人力化】することで、コスパ高へ(→地域民の人力も借りた事業へも)

→節約の大儀があるので、営業もしやすいだろう

 ----

→『大義があれば、営業に後ろめたくない』

→『機械化やルーチン化されていることでの無駄や不便、不満がある。 人力化することでのニーズが出る場所がある。』



■フォーレスト八尾会  富山。

かつて八尾の名産だった桑のお菓子やクッキー、特産品を、障害者と一緒に作り販売。事業収入は年1500万以上。(3年前)

→衰退した地域も障害者も、リカバリする点では同じ。共に再生。

 ----

 →『人も地域も、再生するには、共に力を組み合わせ、”外”に向かった、”外”も喜ぶサービスを展開』 



■よろずや余之助  群馬県。

定年後のシニアの生き方と、地域活性を組み合わせ、相談事業では様々なスキルを持った会員に配分する。

 →余生という自助をしながら、自分たちの力をビジネスになる生きがいに還元

 ----

→『同じ問題を持ったネットワークが、それぞれ互いの持つ技術に関心を持ち、これも『外』に向かう』  

※不足取材



■東海道・吉原宿  静岡。

シャッター商店街の空き店舗活用。高校生店舗(何年も)やレンタルオフィス・店舗など。

 →商店街内部だけで活性化をはかるのではなく、日本全国から盛り上げに来させる。若者イベントなど

 ----

→『問題を逆手にとってオープンな場所とし、外部から盛り上げに来てくるな仕組み。』

 →『問題当事者(商店街主)たちが個別でがんばるのではなく、商店街をチーム化してできる役割を分担』  

※不足取材 抽象的



■坂ノ途中 京都。

新規就農し、販売経路の無い若手「無農薬野菜」農家の販路開拓。

→それぞれ自立した自営業の営業代行。

→営業だけでなく、販路(料理店等)に応じた「じゃあ何作っていくか」の一緒に計画まで。

 ----

→『応援したい人の、もしくは自分がしたくてできないことをする人の、足りない部分があるなら(自分が出来るなら)それを行い発展させる。そのためにビジネス化する。』



■新田むらづくり  (PDF) 鳥取。

限界集落まるごとがNPO。20戸しかない村がなくなってしまうので、農業体験プログラムや、人形浄瑠璃の文化講座、村ぐるみの宿泊サービスなど。

 →同じ困難を抱える者どうし、すべてがメンバーで自立に向かう

 ----

→『まず自分たちが『どうしようもない問題』として共有すること。(切羽詰まってる)』

→『今すぐできること、そこにあるものから、外部に向けての事業を作り出す』

 →『たまり場や講座など、自分たちが楽しいと思え、コミュニケーションできる場が中心』

 ※少し地味かな… 不足取材



■わははネット  香川。

地方での子育て情報(病院…)があまりになく孤立しやすかったので、情報誌、登録者に必要な情報を配信する携帯電話システム、妊婦や幼児連れのケアができる子育てタクシー協会設立他。

→当事者ニーズのビジネス化

 ----

→『社会ニーズとは当事者だけでなく、当事者が関係する環境にもメリットがある→ビジネス化/広告掲載・携帯サービス化・WINWINの他業種とのサービス』

 ※ソーシャルベンチャーのお手本のような事例だな… 逆にヒントがあまりとれない…

   (PDF)

2013年7月11日木曜日

父親の影

僕よりひとまわり若い後輩の、お父さんがなくなった。

彼は、どんな気持ちでいるだろうか。
それでも、誇りに思える父親だったなら、それは一生続く財産だったろう。

しかし、僕はどうか。
ふりかえって、もし問われたとしたら
「自分の父親は、軽蔑するくらいの人間なので、今、縁を切って、絶対に会わない状況で、このまま続けていいのです」
と、言うだろうか。
未だ。




















僕の父親は、 「逃げる男」だった。
自分の母親(僕の祖母)の、いつまでも影響下におり、結局逃れられなかった。

妻(僕の母)が、同居して少しづつ病んでいったのを、知らぬようにふるまった。
自分(父)はいつも、道化のようにおどけ、責任をとることもなかった。
妻にも、子どもらにも。

彼は怒ったことがない。
おそらく、怒れなかったのだろう。
自分の母(祖母)のいうとおりに、進路を走ってきて、誰からもほめられた。

一度、すべてから逃げたことがあった。
それが、家族が崩れる最後のきっかけだった。
彼はずっと海外から帰らず、妻は衰弱し、「私を見て」というように、臓器をいくつも切り取った。
彼の母は変わらず、家主として暗い家の一階の中心にいた。

今でも、母(祖母)を引きずり続けている。

逃げて、痛みを負わない、そして価値観、選択権をいまだ母親(祖母)に取られている彼を、僕は、ずっと軽蔑してきた。
いや、変わってほしいと願った。
だが他のいくつもの機能不全家庭の親のように、彼はのらりくらりと自分が戦うことは避け、結局現場から逃げていた。
ずっと海外にいた。
女もいただろう。

あれから。
自分は、あの家を「変えよう」と願って、わずかながらも動き、それでも、また敗北した。
認めたくなくて、彼らを憎んだ。
とりわけ、ある意味自分に近い性の、父親を。
さげすみ、軽蔑した。
それは、自分の無力から目をそらすことの裏返しだったかもしれない。


今、誰かに問われ、父親とは何かと問われたら

未だ、自分は「離れている」と逃げるのだろうか。
信田さよ子先生は言った。
「親を許さなくてよい。許したものが大人になるというは詭弁。逆に親の真似たくなかった所に妥協してしまう(親の悪に迎合してしまう)。ACは一生許さなくてよい」

しかし、それは今、「弱者」の側に立った弁と自分にはふと思えることもあるのだ。

親を許さないから、生きていられる時代もある。
「許さなくてはいけない」そんな強迫が致命的となることもある。
とくに、回復期の多くのACには。

しかし、それはやはり。

一生、「彼と自分とは関係ない」「袂を分かった」と逃げ続けるのか。
そう、「逃げ」と、ふと思ってしまった。
彼を憎む限り、自分の中の、『逃げる男』 の部分を憎まなくてすむ!!!!!

ずっと一生、思って生きるのか。
「彼のようにはなりたくない」と。
すべての男を憎んで。

彼が自分とはまったく関係ないものである限り、自分は「逃げれる」。
しかし、自分の中にある闇からは、いつまでたっても逃げ切れず、逃げたつもりで、より大きく、足を引きずりこむように、口を開けている気がしてならないのだ。