昨夜、ツイッターでも書いていたが、自分を憎しむ視線というのは、養育者や環境から植えつけられてきたものだと思う。
自分は、いつのまにか、異性に対する男性性をためらいなくひけらかすような人たちに、どこか「ムカつく」ネガティブな感情を底に持っていたからだ。
私はヘテロだけど、「私は異性が好きです!!」と胸を張って叫んだことはない。むしろどこか、自分のセクシュアルを恥じてきた。
— 遠藤一さん (@endohajime) 2013年4月30日
本当はこれ(が疎外)なのかもしれない。自分のセクシュアル(性的な自分)を嫌いな人、認められない人は、セクマイどころか、マジョリティまで心では否定している。
— 遠藤一さん (@endohajime) 2013年4月30日
それは、親が自分に与えたものだった。
小さな頃から「男とは汚いものだ」という視線が、母親にはあった。
僕は自分の性を恥じたが、変えられるものではなかった。
いつからか、自分の欲望を裏切って、「親」の許すような「欲望」へと、すり替えてきた歴史がずっとあるように思う。
僕の欲望は、僕だけのもので、どんなに(誰かから)非難されるようなものであっても、オリジナルなものとして、存在してる。
それは、逃げようがない。
自分に嘘はつけないのだ。
胸を張って言いたい。
「これが僕だ」と。
「女性を、好きになり、欲望する、男としての性を持つものが、自分なのだ」と。
どんなに期待を裏切っても、そして一番隠されておきたい、生の逃げようのないものが「セクシュアル」だと思う。
そして、それを本当に胸を張って言える時(誰に?自分に?)
きっとそれは本当の自立の一歩を踏み出すのだろう。
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レインボーパレードの本当の意味(誰に、何を言いたいの?)や、喪クラスタのリア充(というより、自分の性に自信を持って立っている人)たちへの憎悪などを思って、ふと書きました。
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